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横浜泉区にある織田信長 第六天神社と酒湧池伝説

いずみ中央駅 town
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横浜泉区にある織田信長 第六天神社と酒湧池伝説
泉区は開港前の歴史が多い地域です、今回ご紹介するのは江戸時代の横浜泉区。
そして登場するのは織田信長・酒湧池の伝説。最寄り駅は弥生台駅からバス(戸12)戸塚駅東口行をご利用ください。

2017_2018年にかけて、駅前は再開発されています
2017_2018年にかけて、駅前は再開発されています
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横浜泉区にある織田信長 第六天神社と酒湧池伝説

どこにでもある、よくある神社である。ゆめが丘駅から20分程歩いたところに、地元では通称「下和泉上分の鎮守様」あるいは「鍋屋第六天神社」と呼ばれる神社があります。正式名称は「第六天神社」。何と「第六天」というのは、仏教で信奉している魔王のことだといいます。欲界天の第六、最高位にある天魔なのです。

織田信長は、第六天魔王を名乗っていたことで知られています。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で、武田信玄と織田信長が書状のやりとりをした際に、信長が自らを「第六天魔王信長」と名乗ったことが紹介されています。ただし、この他には自ら名乗っていたという文献は存在しないらしいです。

「第六天」は、信長が篤く信奉していたとされていますが、実は「第六天」は「平家物語」や「太平記」などの書物にすでに登場していて、平安・鎌倉時代から仏教の中の密教の神として崇められていたことが確認されているそうです。それにしても、魔王を祀るとは・・・!恐ろしい存在だからこそ、丁重に祭り上げて諸処の災厄を守る神に転化するという、昔の人々の知恵によるものだったのかもしれません。

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第六天神社について

「第六天神社」は、江戸時代までは関東を中心に多く存在していたと文献に書かれています。関東の旧武蔵国を中心に、旧相模国、旧伊豆国などに存在しましたが、西日本には1つもなありません。ちょっと不思議な神社です。

信長が信奉していたのに西日本に「第六天神社」がないのは、天下統一の後を継いだ豊臣秀吉が、第六天の神威を恐れ、西日本の第六天神社をことごとく廃社にしたからだと伝えられています。そんなにも信長が怖かったのか、それとも魔王が怖かったのか・・・。

それもそのはず。第六天というのは、身の丈は2里、寿命は人間の1600歳を1日とし、16000歳の長寿とされています。その上、男女を自由に交淫・受胎させる力があるとされ、他人の楽しみ事を自由自在に自分の楽しみにかえる法力を持つ「他化自在天」なのだそうです。

戦国時代の混乱の中で織田軍が信濃や甲斐を制覇したのち、民衆が占領軍に迎合して自らの身を守るために「第六天魔王」の石碑を建てた事から、民間信仰として広まったと言われています。小さな祠も含めて関東地方に520以上もありました。

しかし、明治時代になると、神仏分離により、祭神を替えたり社名を替えたりすることが広く行われ、「第六天」の多くは仏教の神様から神道の神様に替えられていきました。そして、この神仏分離により修験道も禁止されたのです。「第六天神社」の中には天狗が祀られている神社もあるように、「第六天」は修験道との関わりが深かったので、その後は祀られなくなった所も多いらしいです。

このように、「第六天」は仏教の神様であったことから、泉区の「第六天神社」も、神仏分離を経て、天神第六代の「面足能命(おもたるのみこと)」と「惶根能命(かしこねのみこと)」の夫婦神2柱を祀るように替えられていきました。「第六天」の“六”の数字から、天神六代の神に替えられたのです。なんと、魔王から神様にかえられたのです!

「第六天」を祀る社は神奈川県下に180社以上ある(建長寺「第六天の由来」より)ようですが、宗教法人格をもつのはわずか5社で、そのうちの1社が泉区の「第六天神社」です。勧請年不詳ですが、鎌倉開府以前からの古社と伝えられています。社前の道は古鎌倉道で、近くには「御畝(おんね)」、「隠忍坊(いんねんぼう)」などの山岳信仰に関係が深い地名が残されています。

天王森泉公園内天王森泉公園内には山葵田もあるには山葵田もある
天王森泉公園内には山葵田もある

酒湧池伝説について

第六天神社境内の隣には池があります。この池には弁天様が祀られ、「弁天池」と呼ばれています。実は、この池には「酒湧池伝説」という孝子伝説が伝えられているそうです。

それは以下のような話です。

「戸塚区(現在は泉区)和泉町に酒湧池と呼ばれる池がある。昔、池の近くに孝子がいて、池の水を樽に汲み取って父に飲ませていた。ある日、里人が樽をさげてきた孝子にあった。どこから酒を買って来たのかと尋ねると孝子は、この山奥の池の水が、うまい酒であるので、汲み取って父にのませているという。里人は大いに喜んで、大樽に汲み取って金儲けをしてやろうとしたところ、その酒はたちまち、ただの水になってしまった。里人が孝子に会ったという橋を、いまでも樽見橋と呼んでいる」(「神奈川県昔話集」採集。昭和15年、大島昇)

西日本には炭酸水がわき出るところがあると言いますが、まさか池から酒がわき出るとは・・・。これは人々の願望が作り出した話なのかもしれません。「花咲かじいさん」や「おむすびころりん」等の昔話と、似たような伝承昔話の一つなのでしょう。しかし、父を思う子の心を神様が汲み取ってくれたという、ちょっと心温まる話でもあります。因みに、和泉町という地名は、この泉から出た名前なのだそうです。

横浜市泉区は江戸の歴史あり

「第六天神社」は、かつて新編相模風土記稿に記載されたものが175社、新編武蔵風土記稿に記載されているのが340社もあったといいます。

このように、風土記稿が記された江戸末期の天保の頃には、多くの人々に信仰されていた「第六天神社」ですが、明治以降に発令された神仏分離令以降、他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば今も300余社あるそうですが、宗教法人格を持つ独立神社としてはすでに36社しかない珍しい存在になっています。「第六天神社」は小さな社がほとんどだったので、昭和の戦後の土地開発などで撤去されたものも多くあったと聞きます。だから、泉区にある「第六天神社」は、現在も宗教法人を有する貴重な歴史遺産と言えましょう。

ところで、「第六天社」は鎌倉の建長寺にもあります。境内ではなく、前の道路を渡り、少し離れたところに祀られています。独立した神社ではありませんが、ここでは「第六天」は魔王のごとき力を持つとされていて、厄除けや方位除けの神として信仰されています。

参考出展:横浜市泉区ホームページ
https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/kaihatsu/16-dairoku.html