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綱島は昔、川に挟まれた中洲だった!?

鶴見川

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綱島は昔、川に挟まれた中洲だった!?

綱島の近くには現在も「鶴見川」が流れています。ですが、現在の綱島をご存知の方は「川に挟まれる??」と思われる方も多いと思います。

実は私も「??」と思った一人でした。

「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。これは地区が南側の鶴見川、東側の早渕川に挟まれている地域であること、あるいは、かつて鶴見川または早渕川にあったある中州がツナシマと呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったことによるものとされる。

wikipediaより

wikipediaには「綱島」の名前の由来が上記のように書かれていました。

歴史のある綱島

綱島山 東照寺
綱島山 東照寺

現在「(仮)新綱島駅」の開発で、東急東横線 綱島駅周辺では広範囲で再開発が続いています。

ですが、綱島自体は新しい街ではありません。結構歴史があります!

とは言っても、江戸時代は農村で鶴見川の氾濫で頭を悩ますような場所だったそうで、栄えたのは大正時代以降のようです。

綱島の桃 日月桃(にちげつとう)

日月桃
日月桃記念碑

綱島で農業・・・というのは今ではあまり考えられないかと思いますが、この辺りでは鶴見川の氾濫に頭を悩ましていたことから明治30年代から池谷道太郎さんという方が病気に強く早い時期に採れる桃の開発をしたそうで、明治40年からはここで開発した苗木が広まり「桃の綱島ブランド」が確立したと言います。

それだけ繁栄したのに、昭和13年に鶴見川の大氾濫と第二次世界大戦の激化により、こちらの地での桃栽培はなくなってしまったそうです。

この石碑自体が私有地にあるのですが、その後ろにある立派な日本家屋がその池谷道太郎さんのご子息のもののようです。

昭和の綱島は温泉で盛り上がる

綱島の温泉施設

大正時代に入って、井戸を掘っていたら偶然温泉が出たことをきっかけに、綱島は温泉街となりました。

戦争前後は「東京の奥座敷」なんて呼ばれていたこともあったそうです。

もともと温泉が最初に出たのも「綱島」と言っていますが綱島駅の近くではなく鶴見川を渡った南側の「港北区樽町」辺りだったと言われています。

現在もその地域に温泉施設があり、綱島駅近くからシャトルバスが出ているようです。しかしながら現在では綱島が「温泉街」であった印象はありませんね。

令和時代の綱島は?

綱島周辺の鶴見川
鶴見川

現在でも綱島駅近くには鶴見川が流れています。それは江戸時代から変わらないことです。

ですが、現在では堤防などが設けられており、普段は散歩やランニングをする人たち、バーベキューやピクニックをする人たちなど憩いの場所となり、いざという時はこの堤防で計測をされ、各地に設置されているスピーカーから警告がされるようになっているため、昔のような被害に遭うことはなくなりました。

昭和の時代も鶴見川は氾濫をした場所もありましたが、現在は新横浜などに「多目的遊水地」が設けられ、水害などは格段になくなりました。

近年の大きい台風なども、「鶴見川多目的遊水地」のお陰で被害に遭わずに済んだ地域も多かったようです。

「川の近くに住んでみたいけど、不安」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、こういう情報は大事ですよね!

鶴見川で水害? 横浜市民の思いは – 横浜で暮らそう

綱島駅前の商店街
綱島駅西口商店街

今、東急東横線 綱島駅を降りると西口側にはすぐ商店街が広がっていて、「祝 綱島小学校 開校70周年」と書かれた垂れ幕が下がっています。

この商店街はチェーン店系のファストフードから地元の商店までバラエティに富んでいて、お年寄りから若い人まで歩く街です。

そこに新駅ができると、今まで綱島へ来なかった方々が来るようになるでしょう。

歴史のある学校に通い、古くから住むお年寄りもいるこの街は、渋谷まで東急東横線で1本。

リバーサイドにも多くのマンションがありますから、令和の時代にはファミリー層にも単身者にも本当に住みやすい場所だと思います!

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Writer
横浜生まれ横浜育ち、通った学校も横浜、現在の住まいも横浜な「どっぷり横浜市民」です。