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阪東橋は演芸の街 三吉演芸場
阪東橋には昭和5年から大衆芸能の拠点として親しまれているハマの演芸場、三吉演芸場があります。
真金町出身の噺家、桂歌丸さんが定期的に独演会を行っていた場所としても有名で、阪東橋は演芸の街ともいわれます。
今回は三吉演芸場についてご紹介します。
目次
三吉演芸場の歴史は古く、元々は銭湯でした。1階が銭湯、空いていた2階を義太夫節や琵琶などの発表の場として貸し出したところから始まっています。
第二次世界大戦で閉館を余儀なくされましたが横浜大空襲の戦火を免れ、三吉劇場として再開。
その後、観客の減少や建物の老朽化で廃業の危機に直面しましたが桂歌丸さんが「三吉演芸場を残す会」会長として尽力し、横浜橋通商店街や三吉橋通商店街の協力も得て今の演芸場が1998年にオープンしました。
1階が駐車場、2階が演芸場、その上層階は賃貸住宅になっています。
1930年(昭和5年)、中村川に架かる三吉橋のたもとにあった銭湯「草津温泉」の2階の休憩室が、素人による義太夫節や琵琶などの貸席として供されたのが三吉演芸場の始まりで、当時は「三吉館」や「貸席三吉」と呼ばれていた。1938年(昭和13年)ごろには大衆演劇が上演されるようになったが、第二次世界大戦により1943年(昭和18年)には閉鎖を余儀なくされた。横浜大空襲の戦火を免れた同館は、1950年(昭和25年)に「三吉劇場」と名を改め再開。1961年(昭和36年)からは「三吉東映」の名で映画の上映も行い、映画も芝居も楽しめる劇場として親しまれた。昭和40年代に入ると家庭のテレビの普及により観客が減少、経営難のため興業師は営業権を放棄した。
1973年(昭和48年)、二代目オーナーとなる本田玉江が劇場経営を引き継ぎ、大衆演劇専門劇場として再出発した。当初は客の入りは少なかったが、伊勢佐木町で人力車を走らせたり、中村川で船乗り込みを行ったりして宣伝に努めた。近隣の真金町出身の噺家桂歌丸も、この頃から定期的に独演会を行った。
1990年代に入り、娯楽の多様性による観客減少や建物の老朽化により廃業の危機に直面した。歌丸は「三吉演芸場を残す会」会長として尽力し、横浜橋通商店街や三吉橋通商店街の協力も得て2500万円の寄付が集まった。1996年(平成8年)から建替工事が行われ、1998年(平成10年)に新たな演芸場がオープンした。上層階は、横浜市住宅供給公社による賃貸住宅「レ・シェーナ」となっている。
2000年(平成12年)、母親の後を継ぎ本田博が四代目社長となる。
三吉演芸場 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%90%89%E6%BC%94%E8%8A%B8%E5%A0%B4
新型コロナウイルス感染拡大の影響で三吉演芸場も客足が減り、2020年に緊急事態宣言が出された後は1ヶ月半休業となりました。再開後も苦しい状況ではあるものの、対策を講じながら営業を続けています。
演芸場は昨年五月、公演後に出演者が出入り口で観客を見送る「送り出し」を取りやめた。代わりに団員の集合写真を観客が撮影できる機会を設けた。観客同士の接触の機会を少なくするため、公演時間も通常より三十分短い二時間半とし、休憩も一回に減らした。観客数の上限も定員の半分の百三人までとした。
三吉演芸場、幕上げ続ける 4代目社長・本田さん「大衆演劇の火絶やさない」:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/92769
演芸場の入口にも看板がありました。しばらくは短い公演時間で観客数の上限も半分にしているとのことです。
観に行く際はマスクの着用をお忘れなく。
三吉演芸場へは横浜市営地下鉄阪東橋駅から徒歩10分ほど。
すぐ近くに中村川が流れる三吉橋があります。
営業時間: 12時~21時
三吉演芸場オフィシャルサイト
http://miyoshiengeijo.web.fc2.com/
三吉演芸場で演芸を楽しんだ後は、すぐ近くの三吉橋通り商店街~横浜橋商店街でお買い物がオススメ。
飲食店やカフェで一息するもよし、お弁当を買うもよし、新鮮食材を買って帰るもよしです。