横浜の水道道を知っていますか?
横浜の水道道を知っていますか?
横浜市内には、道路標識としての水道道(すいどうみち)や、バス停名の水道道を見かけたことがある方も多いのではないでしょうか。水道道とはその名の通り水道が通る道という意味で地下に水道管が通っている道のことです。
江戸時代には確立していた上水道ですが、明治に入り生活スタイルの変化や、地下水の不足、水源の汚染、また、伝染病コレラの流行もあり、水の重要性が高まってきた時期、横浜の代表的商人の原善三郎、大倉喜八郎ら18名が水道会社を設立し、明治16年(1883)にはイギリスの陸軍工兵少佐パーマーに、水道施設に関する調査、設計を依頼しました。そして津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する津久井郡三井村(海抜100m)の取水口から野毛山配水池(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけて開通させたのです。
工事のためにイギリスのグラスゴーから輸入した鋳鉄管を船で相模川から上流に運んだり、水道管を埋設する道路にトロッコの軌道を埋設して運搬し水道工事を進めたことから、いまでも軌道跡が市内のあちこちにあります。
水道道とは
横浜で近代水道が生まれたあと、埼玉県を北東から南西へ貫くように、東京都水道局の朝霞浄水場と東村山浄水場間を結ぶ水道が開通しました。東京都の浄水場は、全部で11か所あり、それぞれの受水管と送水管が多いため浄水場周辺には複数の水道道路があることになります。
当初の水道道は、地下の浅い部分に水道管を埋設したので、重いものが上に乗ると水道管の破損をまねくため自転車以外は通れないように制限され、水道設備の間を極力最短距離で結ぶよう設計されているので一直線に延びていることが多いようです。
例えば、東京都道428号荒玉水道道路には水道管が壊れることのないよう、大型車の通行規制を水道局が行っています。この荒玉水道道路に限らず、多くの水道道路はひたすらまっすぐに作られているのが特徴的です。
また、2006年に廃止されてしまった尾張サイクリングロードですが、名古屋市上下水道局の水道上に整備されていました。現在では尾張水道みちと改称され、自転車と歩行者の通行のみ可能となっています。
旭区と水道道の関係
横浜市旭区内には、明治34年(1901年)に川井浄水場ができ、その後大正4年(1915年)には鶴ケ峰浄水場ができました。大貫谷戸と鶴ヶ峰にそれぞれ水路橋をかけ、浄水場を鶴ヶ峰の丘の上に完成させたのですが、横浜に多い『谷戸』という地名は丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地を示す言葉ですので、工事の難所であったことは間違いありません。
横浜市には現在3つの浄水場が稼働していますが、そのうち川井浄水場で水道水となった水は、主に横浜市の西部方面に給水されています。また、現在の鶴ヶ峰浄水場は浄水場としての役目を終え、配水池としての再整備が進められています。
旭区内の水道道は旧16号(八王子街道)と帷子川に沿いつ離れつして野毛山へ向けて通っています。水道道の途中途中には『水道みちトロッコの歴史』案内板(市内には全部で26か所に案内板がある)があり、横浜市中へ生活に欠かせないきれいな水を送っている川井浄水場がある旭区の住民は水道道を身近な貴重な文化遺産と感じながら、日々の生活を送っているといるでしょう。
横浜にとって水道道は
横浜の水道水の水源は、道志川、相模湖、津久井湖、丹沢湖、宮ヶ瀬湖です。これらの水源からの水は横浜市内の各浄水場へ運ばれ、水道水として利用されています。特に、道志川については、大正5年(1916年)に、横浜市が山梨県から道志村の山林を買い上げて、貴重な水源として管理してきました。道志川・相模湖系統は地形の高低差を活かした自然流下式で、水源地から浄水場に原水を送る際にポンプなどを使わず勾配だけで水を流しています。
近年、道志村の森林は水源かん養機能(水を蓄える、水を浄化する、洪水を緩和する)が低下してきていることから、横浜市は、道志水源林のランティア事業として間伐等の活動を推進し、また、水のふるさと道志の森基金の設置や水源エコプロジェクト W-eco・p(ウィコップ)の立ち上げなど様々な活動を進めています。
現在、横浜市内の水道道は3本あり、その長さを足すと、19, 200Kmという、けっこうな距離になります。水道発祥の地横浜の人々は水道道と共に生活する中で、無意識に水を守る意識が高くなっているのかもしれません。