横浜道って何?
横浜市西区にある「横浜道」という通りの名前、みなさんはきいたことはありますか?「横浜」という名がついている王道の名前であるものの、横浜に住んでいる人でもあまりなじみがない道かもしれません。
「横浜道」が誕生したのは江戸末期。開港場と東海道筋を結ぶ道として開かれました。今は当時の面影は少ないものの、開港から現代にいたる横浜の発展の歴史を感じられる名所が点在する歴史散歩にぴったりの道なんです。
西区内には、歴史街道としてこの横浜道とともに、旧東海道、保土ケ谷道が三角形を描くように通っています。区内にははそれをデザイン化したシンボルマークが案内サインが整備されているので、サインをチェックしながら歴史の面影を探しながら散歩するのがおすすめです。
西区を通る古道:旧東海道、保土ヶ谷道、横浜道
https://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/shokai/kanko/courses/rekishikaido04.html
横浜道の歴史
先程少し触れたように「横浜道」は横浜の開港とともにできた道です。
江戸の末期、安政5年に日米修好条約が結ばれ「横浜村」が開港場として選ばれました。
選ばれた理由は、東海道から距離があり人里離れた場所だったので開港の混乱を避けやすい、と考えられたからです。
しかしその反面、開港場への交通の便は大変悪かったのです。東海道と開港場の間には湿地と野毛山と断崖が続くので、回り道をするか神奈川宿から渡し舟で行くしかなく、人も物も行き来は厳しいものでした。
そこで幕府は東海道と開港場を結ぶ道を建設することを決め、何と安政6年6月開港の3ヶ月前に着工、2ヶ月の突貫工事で作られたのが「横浜道」なのです。
この横浜道は、東海道の芝生村(現在の環状1号線浅間下交差点あたり)から、湿地帯の岡野・平沼の各新田、戸部村、戸部坂、野毛の切り通して、太田橋(現在の吉田橋)を経て、開港場へ行く東海道からの最短コースとなりました。太田橋のほか新田間橋、平沼橋、石崎橋(現敷島橋)、野毛橋(現都橋)もかけられました。
横浜道ができたことで太田橋のたもとに関所が設けられ、ここから開港場方面は関内、伊勢佐木町側は関外と呼ばれるようになりました。また沿道である野毛や吉田町あたりは沿道を行く人目当ての商売が大変さかんになり栄えていきました。
横浜道から港に繋がる名所ご紹介
開港とともに開かれた横浜道。今は当時の風情はないものの、今でも開港から近代にかける横浜の面影にふれられる名所がたくさんあります。そんなに距離もないので横浜駅周辺から馬車道から港方面へぶらぶらと散歩するのにぴったりな歴史散歩コースです。
まずは横浜道の東海道側のスタート地点だった環状1号線浅間下交差点付近に横浜道の案内看板と、道に案内サインがあります。
新田間橋を経て平沼橋からエレベータで降りると平沼商店街へ。
商店街を抜け石崎川の敷島橋を渡って歩いていきます。
国道1号線を渡ってしばらく歩くと岩亀横丁、岩亀稲荷がある地点に。こちらは江戸末期から明治に栄えた遊郭、岩亀楼の寮があった場所でした。華々しい開港と横浜の発展の裏にあった女性達の悲哀に手を合わせたくなります。
また近くの掃部山には開国に舵を切った井伊直弼の銅像が、明治になって旧彦根藩士によって建立され、今でも開港場を見つめています。
現在、青少年センター、県立音楽堂や図書館があるあたりは、かつて神奈川奉行所や役宅があったところ。今は史跡の碑ともにコルビュジェに学んだ前川國男設計の音楽堂と図書館など近代建築を眺めることができます。
明治になって、日本人の心の拠り所として建立された伊勢皇大神宮。桜の名所としても有名で、当時は海が見渡せました。
野毛の切り通しの最終地点近く、中央図書館前にある野毛山住宅亀甲擁壁。明治時代、野毛山には開港とともに成功した豪商のお屋敷があり、この壁は旧平沼専蔵邸の一部。震災にも耐えた頑丈な壁から、当時の豪商の興隆ぶりをうかがうことができます。
横浜から始まった近代水道。ちぇるる野毛裏の公園に当時使用されていた水道管が飾られています。
開港場に行き交う人々を目当てにたくさんの商店ができ賑わいをみせた野毛、吉田町。震災・戦争・戦後の混乱をくぐり抜け、今も賑わっているのはご存知のとおり。
そして港につながる吉田橋。今は道路橋になっていますが、史跡の碑がたっています。
港以外の魅力あふれる横浜を楽しもう
開港とともに日本の近代化に貢献し、発展を続けてきた横浜。もちろんミナトあっての横浜ですが、開港場となったことで急速に発展した横浜の街には、当時の面影やエピソードを残す史跡や場所がたくさんあります。横浜道は横浜駅から歩きやすい街なので、ぜひ開港後の人々の足取りをたどりながら港へ向かってみてはいかがでしょうか。