鶴見区「寺尾城址」は室町時代の山城だった!?
寺尾城址は、横浜市鶴見区馬場3丁目の住宅街にある穴場スポットです。
1436年頃、諏訪氏によって築城され、現在は横浜市登録地域文化財に登録されています。
しかし、寺尾城の全容は現在も謎に包まれており、いまだ解明されていません。
ここでは、鶴見区の殿山に残る中世の山城跡「寺尾城址」を紹介するコンテンツです。
鶴見区「寺尾城址」は室町時代の山城だった!?
横浜市の最東端に位置する海と山に囲まれた自然豊かな「鶴見区」。
みなさんは、そんな鶴見区に「寺尾城」というお城があったことをご存知でしょうか?
そんな鶴見区馬場3丁目の「殿山」という台地にひっそりと佇むのが「寺尾城址」です。
この寺尾城址は天守閣のような立派な建物ではなく、砦のような山城だったそうです。
しかし、関連書物が残っていないことから「謎に包まれた中世の山城」とも言われています。
現在は、横浜市登録地域文化財(地域史跡)に指定されています。
また、周辺には城址跡/公園/お寺/稲荷神社など歴史を感じられる場所も多いのです。
「寺尾城址ってどんなところ?」「どんな歴史なの?」「アクセスは?」
今回は、横浜市鶴見区馬場3丁目にある「寺尾城址」の見どころをお伝えします。
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寺尾城址ってどんなところ?
まずは、寺尾城址についてお伝えします。
寺尾城址の歴史は、室町時代までさかのぼります。
殿山と呼ばれる丘の上には、その昔寺尾城があったと伝えられている。お城といっても天守閣のあるような立派な建物ではなく、砦のような山城であったようだが、寺尾城についてはその全容はなぞに包まれており、未だ解明されてはいない。信州の豪族諏訪氏が1436年ごろに築城
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その1)- 横浜市鶴見区
したと伝えられている。
寺尾城は領主諏訪三河守五代(約140年間)にわたりこの地にあった。後北条氏に属し、貫髙は二百貫文(およそ二千石)で、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに居城していた。
「寺尾城址」案内板より
永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原城を攻めた際に、廃城になったと思われる。数百年を経た今日、その遺構(空堀・土塁跡)の一部が殿山公園などに現存している。
寺尾城は信州の豪族諏訪氏が1436年頃に築城し、約140年間存在していました。
しかし1569年、武田信玄が小田原城を攻めた際に落城したと伝えられています。
寺尾城主諏訪右馬之助は駿河軍加勢のため小田原に招集されていた。城主不在の寺尾城にはわずかな兵しかいなかった。戦う威力のないのを見越した武田軍は、「城を焼かずに通り過ぎた」と、『北条記』には記されている。
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その2)- 横浜市鶴見区
北条記によると、落城された当時は城主不在で兵も少なかったとのこと。
ここからも分かるように寺尾城は時間をかけず、終わり方があっけなかったようです。
現在、寺尾城の全容に関する歴史的書物が殆ど残っていないため、謎に包まれたまま。
そのため、歴史に関する記述も「〜と思われる」「〜のようだ」という記載なのです。
とても曖昧で、断定的な内容ではないことがこのような記述からもよく分かりますね。
残念ながら、現在では当時の山城があった様子を見ることができません。
このようなことから、その土地にかつて城があったことを指す「城址」が使われています。
そもそも寺尾城主だった信州の「豪州諏訪氏」とは、どんな人物だったのでしょうか?
諏訪氏は、信濃の豪族諏訪一族の支流で、戦国時代になって鶴見の寺尾に進出してきたといわれている。小田原北条家に仕える武将として各地での戦いに加わっていたことが「北条記」などに記されている。寺尾の諏訪氏は、天正3年(1575年)に滅びるまで5代、百数十年間、寺尾城に居城していたといわれている。
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その1)- 横浜市鶴見区
寺尾城主の諏訪氏は、後北条氏が相模統一を達成する段階において、北条早雲のもとに参じ、小田原城平定の際、最初に功績をあげた家柄。
諏訪氏一族は、小田原北条家に仕える武将として「北条記」にも記されるほど有名でした。
当時、小田原までの移動にとても時間がかかったため、諏訪氏は寺尾を選んだのでしょう。
このような経緯を知ると、信州の豪族・諏訪氏が寺尾に築城した理由も納得できますね。
そして、諏訪一族の名前は現在も「鶴見区諏訪坂」という地名で残っているのです。
ここには、諏訪氏一族にまつわる館跡・古墳・稲荷社が現存しています。
『新編武蔵風土記稿』「橘樹郡鶴見村・諏訪家屋敷」に、「海道より右方へ五六丁ゆきて丘上にあり。一株の大松あり。是古へ諏訪午之丞居住ありしところにて、其頃の松なり。故に土人今も諏訪の松といへり。諏訪三河守某と云人北条家の家人にて、此辺寺尾を領せしことはかの家の所領役帳など云ものに出せり。午之丞は其の子などにや」と、諏訪氏の館が現在諏訪坂という地名が残る丘の中腹にあったことなどが記されている。
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その1)- 横浜市鶴見区
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寺尾城址周辺を散策
ここからは、実際に散策しながら「寺尾城址」と周辺スポットの見どころをご紹介します。
訪れる際は、ぜひ参考にしてみてくださいね。
建功寺
まず1つ目のおすすめスポットは、馬場1-2-1にある「徳雄山 建功寺」です。
建功寺は、曹洞宗の禅寺で室町時代の1560年頃に開基したと伝えられています。
寺尾城5代目城主の諏訪右馬之助が龍散寺の大州長譽和尚を迎え、開山されました。
もともとは、諏訪氏の菩提寺を目的として建立された寺院となります。
ちなみに、山号の「徳雄山」は武士として勇ましい姿「徳勇」が「徳雄」に変化したもの。
そして、寺号の「建功寺」は「功績をもって建立した寺」に由来しているのです。
本堂は1757年に建立されたほか、庭園や梵鐘などからも長い歴史を感じられます。
特に、広い庭園は竹林などを含めて一面緑に囲まれており、その雰囲気は圧巻です。
大みそかには除夜の鐘、お正月には初詣が行われる地元民には有名な寺院となっています。
アクセスは、横浜市営バス「西寺尾建功寺前」バス停から歩いて約30秒です。
バス停の目の前が寺院入口となっているため、迷うことはありません。
なお、駐車場は計4か所約100台が駐車できるため、お墓参りに車で訪れても安心ですね。
馬場稲荷
2つ目のおすすめスポットは、馬場3-17にある「馬場稲荷」です。
馬場稲荷は、寺尾城5代目城主の諏訪右馬之助にゆかりのある神社となっています。
諏訪右馬之助は武勇に優れた武将であったらしい。軍記物語にしばしばその名を見ることができる。明応4年(1495年)、北条早雲が、扇谷上杉と和談の交渉を進めたおりの使者
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その1)- 横浜市鶴見区
であり、結城合戦のとき諏訪氏は上杉方について戦ったと思われる。また天文23年(1554年)3月、
北条氏康と武田晴信が激しく戦った加島合戦のとき、
一番槍の手柄を立てたことが『北条記』に記されている。そして、小田原北条氏が全盛期を迎えた永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』には、
江戸衆(江戸城に参じる軍団)に配属されたことなどが記されている。
寺尾城址近くに5代目城主諏訪右馬之助が馬術上達祈願をした寺尾稲荷もある。
諏訪右馬之助は武士の家系の人間でしたが、当時とても馬術が下手だったそうです。
名前に「馬」という漢字が入っていることは関係なく、馬術は全くダメだったようですね。
軍記物語によると、どのくらい下手だったかが分かるおもしろい逸話が残っています。
右馬之助は生来馬術が下手であった。一城の主として馬術が下手では千軍万馬のなかをかけめぐって、武勇をたてることはむずかしい。そこで城下の稲荷社に馬術上達の祈願をかけた。ある夜、夢に一人の老翁があらわれ、「われは、そなたが念願に及ぶ寺尾稲荷である。日ごろの熱心なそなたの願いに感じ、いまより馬術上達の加護を与えるであろう」といって消えた。右馬之助の喜びは大変なもので、まもなく馬術は練達し、北条氏康きかの十勇士の中に名を連ねるほか、相模衆の一家に加えられるまでになったという。それ以来、だれ言うともなく、寺尾城主諏訪右馬之助の馬術上達祈願の昔話が、ありがたや、ありがたやと広められ、武家の馬上安全、馬術上達の祈願をこめる者あとを絶たず・・・・」
第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その2)- 横浜市鶴見区
現在は、地名が馬場になったことで馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷でした。
ある夜、諏訪右馬之助の夢の中におじいさんが出てきてこのように告げられたそうです。
「あなたはいつも頑張って馬術を練習しているので上達のご加護を与える」と。
このような縁起の良い夢を見た後、実際におじいさんの予言通り馬術が上手くなります。
そして、幸運なことは続いて諏訪右馬之助は相模の一家になるまで出世しました。
これは「夢に出てきた予言で馬術が上達した」という何とも不思議なエピソードなのです。
諏訪右馬之助は馬術を克服して勇ましい武士になるため、神社へ願掛けしに行くほど。
神社は現在も寺尾城近くに残っていて、それが「馬場稲荷(旧:寺尾稲荷)」なのです。
不思議な言い伝えが広まり、江戸時代には馬術上達のパワースポットとして有名に。
そのため、交通手段が限られていた当時の江戸から参詣に訪れる人も多かったそうです。
その後、第二次大戦中の輜重兵たちも武運長久を願って参詣に訪れていました。
アクセスは、建功寺から歩いて約8分です。
「水道道」というバス通りをまっすぐ約500m進むと「馬場郵便局前」交差点が見えます。
三叉路の真ん中を行き、坂道を少し上ると左側に赤い屋根の神社が見えて到着です。
殿山公園と寺尾城址跡
最後の3つ目のおすすめスポットは、馬場3-11の「殿山公園」と「寺尾城址跡」です。
殿山公園は寺尾城址があったとされ、名前の通り「殿山」と住宅街に囲まれた公園。
もともと、寺尾城址は山城だったため、とても広い敷地ではありませんでした。
現在の園内もそこまで広くない上に、遊具もブランコ/すべり台/鉄棒の3つだけです。
そして、園内をよく見ると当時の面影を残す場所が所々にありました。
お城の「石垣」、神が御座する「磐座(いわくら)」のような岩石 など…
遊具を奥へ進むと「寺尾城の遺構」という案内板があります。
これは、竪堀の発掘調査で発見され、遺構として保存・整備されていました。
私有地のため立入禁止ですが、隣接するマンション内には土塁と言われる盛土があります。
急な階段の坂道を上る途中には、たくさんの植物が咲いていましたよ。
園内西側をさらに約140m進みます。
かつて、本丸跡があった馬場3-15-1に「寺尾城址碑」が建てられているのです。
ここには、立派な茶褐色の石碑とともに歴史を知れる説明看板もありました。
住宅街の一角にひっそりと佇んでいるため、見逃さないようにしましょう。
寺尾城が「現存していたらどんな姿だったのか?」と想像するだけで、ワクワクしますね。
なぜ、公園名が「寺尾城址公園」ではなく「殿山公園」なのか定かではありません。
アクセスは、横浜市営バス「東寺尾2丁目」バス停から歩いて約3分となっています。
停留所からバス通りを約100m行くと三叉路が見えてくるため、中央をさらに進みます。
脇道を入って約20m進むと、左側が殿山公園です。
寺尾城址への交通アクセスについて
それでは、寺尾城址への行き方と交通アクセスについてお伝えします。
ちなみに、4か所まわるなら「建功寺→馬場稲荷→寺尾城址跡→殿山公園」の順がおすすめ。
全部で3つ最寄りのバス停があるため、まわる順番によって使い分けと便利ですよ。
まず1つ目のアクセスは「西寺尾建功寺前」バス停についてです。
JR線「鶴見駅(西口)」と東急東横線「菊名駅」からバスとなります。
「鶴見駅西口」バス停からは、横浜市営バスで約17分です。
「鶴見駅西口循環行き」は「西寺尾建功寺前」バス停に停車しないため、ご注意ください。
2つ目のアクセスは「東高校前」バス停についてです。
「東高校前」バス停は、東急東横線「菊名駅」からバスで訪れる場合となります。
「菊名駅前」バス停からは、横浜市営バスまたは川崎鶴見臨港バスで約17分です。
3つ目のアクセスは「東寺尾2丁目」バス停についてです。
殿山公園へは「東寺尾2丁目」バス停が一番近くなっています。
バスは、横浜市営バスで「荒立/鶴見駅西口循環行」に乗車しましょう。
殿山公園から「東寺尾2丁目」バス停までは歩いて約3分となっていました。
「殿山」バス停もありますが、こちらの方が近くて分かりやすかったです。
公園を左折して約20m行くとバス通りが見えるため、さらに進みます。
約100m進むと、右側には目印としてスーパーが見え、目の前がバス停です。
終点「鶴見駅西口」バス停までは、約14分となっていました。
ただし、どのバスも運行本数が少ないため、予め時刻表を確認しておきましょう。
鶴見区 歴史ある中世の山城跡「寺尾城址」へ行こう!
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ここまで、鶴見区馬場にある「寺尾城址跡」周辺の見どころをお伝えしました。
少しでも参考になれば幸いです。
歴史好きな方にはたまらない地元民だけが知る穴場スポット「寺尾城址跡」。
現在は住宅街となり、山城だった当時の姿を見ることはできません。
しかし、所々に残る山城の石垣と思われる面影などから歴史を感じられます。
寺尾城址跡 馬場稲荷 建功寺 など…
寺尾城址の城主だった諏訪氏が見ていた景色も見えてくるはずです。
紹介した3か所を巡りながら室町時代へタイムスリップし、古に想いを馳せてみませんか。
横浜 鶴見ってどんな街? 暮らしやすいの? – 横浜で暮らそう