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横浜発祥のものとは? ~日本の文化を巡る旅~

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横浜発祥のものとは? ~日本の文化を巡る旅~
1年を通して多くの観光客で賑わう、人気の観光地「横浜」。
また、横浜は「住みたい街ランキング」で毎年1位に輝くオシャレな街です。
しかし、流行やトレンドで時代の最先端を行くことは、今に始まったことではありません。
ここでは、魅力溢れる「横浜」が発祥の地とされるものや文化を紹介するコンテンツです。

横浜発祥のものとは? ~日本の文化を巡る旅~

私たちが普段の生活で使っているものといえば、どんなものを思い浮かべますか。
電話 鉄道 街灯 公園 ホテル など…

今では当たり前のように使っているこれらも、明治時代以降に全国へ伝わりました。
ちなみに「横浜発祥の文化」と言われると「海外から持ち込まれたものや文化が横浜で広まった」という印象が強いと思います。
もちろん、そのような文化もたくさんありますが、「横浜」で誕生したものもあるのです。
そのため「こんな文化やものも横浜が発祥だったの?」という驚きもあるかもしれません。
今回は「横浜発祥の文化」と、横浜観光で楽しめるおすすめスポットをお伝えします。

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「横浜発祥の文化」が多い理由と歴史について

そもそも、なぜ横浜は「発祥の地」となっているものが数多くあるのでしょうか。
その歴史は、今から150年以上前の江戸時代にさかのぼります。
日本は当時、江戸幕府のもと鎖国をしていましたが、1859年にペリーの黒船来航で開国しました。
その際、西洋の生活様式が入ってきたことで、たくさんの西洋文化も伝わったのです。

横浜港の歴史(変遷図、年表)- 横浜市

なかでも横浜は、日本で最初に開港したため、海外からいち早く伝わりました。
そのため、来日した外国人によってもたらされた海外の品物や文化が多い街なのです。
その名残として、今でも横浜市内に「発祥の地」記念碑やそれを紹介した案内板がたくさん設置されています。

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横浜観光で楽しめる「横浜発祥の文化」おすすめスポットとは?

ここからは、横浜観光を巡りながら楽しめる「横浜発祥の文化」を8つご紹介いたします。
横浜観光を楽しみながら、横浜発祥の文化と歴史を学べるのは嬉しいですね。
そのときの気分で、散策ルートを決めてみるのもいいかもしれません。
ぜひ参考にしてみてください。

JR横浜タワー

鉄道

まず1つ目は、日本で最も利用されている交通手段の1つ「鉄道」です。
日本の鉄道といえば、世界から見ても最高クラスで評価の高い乗り物となっています。
その理由としては、複数の路線が重なることなく、張り巡らされていることです。
また、運行ダイヤも正確で時刻表から1分1秒も遅れることがありません。

相鉄線
相鉄線

そして、何と言っても「安全かつ清潔」であることが1番の魅力だそうです。
そのため、海外の方々から「日本の鉄道は世界一」と言われています。
日本の鉄道において、朝の通勤ラッシュ時間帯は不思議な光景のようですが…。
マニアな方は、鉄道に乗車するためだけに海外から日本へ訪れることもあるそうです。

横浜駅
JR横浜駅

そんな鉄道も、日本で最初に運行したのは横浜なのです。
そのため、日本で初めて「品川駅~横浜駅」間で鉄道が開通した記念碑がJR線「桜木町駅」から少し歩いたところに建っています。
1872年、日本初となる鉄道の運行が「品川駅~横浜駅」間で開始されたのです。
先に工事が完了した6月12日に「品川駅~横浜駅」間を仮開業として運行しました。
そして、その4ヵ月後となる、1872年10月14日(旧暦:1872年9月12日)に区間が「新橋駅」まで延長され「新橋駅~横浜駅」間が本営業となったのです。
「新橋駅」と「横浜駅」で鉄道開業式が行われた10月14日を、現在では「鉄道の日」に制定されています。
現在「品川駅~横浜駅」間には「川崎駅」がありますが、当時は中間駅がなかったのです。
開業1か月後には「川崎駅」と「神奈川駅」が開業しています。
現在の「横浜駅」は3代目で、初代の駅舎はJR線「桜木町駅」にありました。

桜木町駅
桜木町駅

当時は、旅客専用列車として1日9往復のみ、運転時間は53分も掛かっていました。
しかし、当時の鉄道はとても速い乗り物だったのです。
馬車で「品川駅~横浜駅」間を走ると、4時間は掛かる時代です。
4分の1程度で行けることもあり、運賃もとても高額で1番安い席が50銭だったそうです。
かけそば1杯5厘の時代に、100杯食べてやっと一番安い席に乗る事ができるほどでした。

ちなみに、2代目「横浜駅」は現在の国道1号線高島町交差点付近に建っていたそうです。
レンガ造りでルネサンス様式が用いられた2階建ての駅舎は、1915年に完成しました。
この外観は、現在も残る「東京駅」の駅舎にそっくりだったそうです。
2代目の駅舎ということもあり、食堂や売店なども充実していたとのことでした。
しかし、その8年後となる1923年に関東大震災が発生し、甚大な被害を受けます。
そのため、2代目「横浜駅」はわずか8年という短い期間だったことから「幻の駅舎」とも言われているのです。

東京駅

もともと記念碑は、最初に開業した1872年の初代「横浜駅」の跡地に建っていました。
しかし、1988年に跡地のあった広場を整備するため、現在の場所へ移設されたのです。
少し分かりにくい場所にひっそりと佇んでいる記念碑を、ぜひ探してみてくださいね。

参考:横浜の鉄道・その歴史 – 横浜市

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ガス灯

次に2つ目は、街中で明かりを灯すのには欠かせない「ガス灯(街路灯)」です。
日本最初のガス灯は、文明開化の地・横浜市中区の馬車道周辺に設置されました。
そのガス灯が設置されるまでの歴史は、以下の通りです。

1871年(明治4年)、横浜駐在のドイツ領事がガス会社の設立を神奈川県に申請。県は権益が外国人の手に落ちることを嫌い、建設業や旅館業などを手広く営む高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)に相談しました。高島は準備会社である日本社中を結成、フランス人技師のアンリ・プレグランを招き、1872年、横浜瓦斯会社を設立しました。自前でガスを製造し、同年9月29日(新暦の10月31日)には横浜の大江橋から馬車道、本町通りに並べられたガス燈が点灯されました。ガス燈は文明開化の象徴として急速に普及、1874年には東京・銀座通りに85基のガス燈が設けられ、銀座名物となりました。

ガスの記念日について – 一般社団法人 日本ガス協会

ガス灯は、馬車道に設置されたことをきっかけに全国へ広まっていきました。
そのため、馬車道には「日本初のガス灯が灯された場所」として、東京ガスの協力で設置された案内板もあります。
また、馬車道の歩道にはガス灯が描かれたタイルもあるため、ぜひ見つけてみてください。

日本初のガス灯 案内板
「イギリスからやってきたガス灯たち」案内板
馬車道 タイル2

現在のガス灯といえば、東京の銀座にある「銀座ガス灯通り」が有名ですね。
他にも、銀座~日本橋にかけて100基以上のガス灯が見られるため、趣があります。
現在も当時と変わらぬまま、歴史が残る街にはこのような「日本の文明開化」を感じることができるのです。

日本橋とガス灯

そもそも、ガス灯という言葉をあまり聞きませんが、どのようなものなのでしょうか。

燃料用ガスを燃やした灯火。
青白い光を放ち、明治、大正のころ主として街灯として用いられた。
ガスライト・ガスランプとも言う。

広辞苑 より

ガス灯の明かりは、もともと赤色(オレンジ色)をしていましたが、1886年に白熱マントルのガス灯が発明されます。
ガスの色が白熱マントルの青白い光へ変化したことで、より明るく光度も増しました。
そのため、1890年頃には室内用の行灯(あんどん)として普及していったのです。
しかし、換気の問題から室外にある街路灯のみに用途が変化していきます。
そして、臭い・電気代・環境配慮などの理由からガス灯は徐々に姿を消していったのです。

エコ ヒント 電球

1900年代になると、ガス会社事業が全国的に普及し始めます。
その後、電灯の登場によって、ガスは明かりの役割が減っていきました。
その一方「ガスかまど」の誕生で、料理や風呂など家庭用の燃料に普及したのです。
日本ガス協会は、横浜にガス灯が点灯した日を記念して、10月31日を「ガスの記念日」に制定しています。

住まい 家

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電話

3つ目は、スマホやSNSが主流となって徐々に姿を消していった「電話」です。
1890年、東京~横浜市内を結ぶ日本初の電話サービス「電話交換」が開始されました。
現在の電話サービスは、この電話交換というものが先駆けとなっています。
しかし、この「電話交換」は聞き馴染みがなくなり、知らない若者も多くなりました。
そもそも、電話交換はどのようなものなのでしょうか。

加入者の電話線を、通話しようとする相手方の電話線に接続すること。

広辞苑 より

1890年に郵便を含めて通信を管轄していたのは、逓信省(ていしんしょう)でした。
そして、電話交換が最盛期だった頃には、電話交換手という職業まであったのです。

当時は、電話と電話の間に「交換手」と呼ばれる人がいて、その交換手が相手に電話をつなげてくれることによって、電話をすることができたのです。電話機の受話器を上げると交換手につながり、「横浜のAさんにつないでください」と通話先を告げると、交換手が横浜のAさんにつなぐ、という仕組みでした。

第1回 電話の普及 その背景にある技術とは – NTT東日本
NTT広報室公式Twitter より

電話交換手は、電話したい相手に電話を手動でつなぐ職業です。
実際には、以下のような2通りがありました。

  1. 電話をかけて回線同士をつなぐ
  2. 代表番号にかかってきた電話を取り次いで応対する

当時は、受話器を上げると交換手につながる仕組みだったため、初期の電話機にはダイヤルがなかったのです。
電話サービスが始まった当初は加入者数も現在ほど多くなかったため、交換手の手によって取り次ぎ可能でした。

しかし、加入者数や利用率が普及したことで、取り次ぎが追いつかなくなったのです。
このような背景から、電話と電話を繋ぐ「自動交換機」が1926年以降、徐々に導入されていきました。
みなとみらい線「日本大通り駅」の郵便局近くに「電話交換創始の地」記念碑があります。
これによると、当時の電話交換手は4名で始まったそうです。
電話事業の始まった当初は、少人数で回るほど世間にサービスが浸透していませんでした。
横浜の加入者は42名で、市内の通話料金は年間35円(現在の価値で約13万円)の定額制だったそうです。

日本大通り駅周辺はどんなところ? – 横浜で暮らそう

西洋式公園

4つ目は、現在の日本で広大な敷地面積を誇る公園とされている「西洋式公園」です。
この西洋式公園発祥の地となっているのが「山手公園」となっています。
アクセスは、みなとみらい線「元町・中華街駅」元町口から徒歩約15分です。

標識

明治3年(1870)年に、横浜居留外国人によって造られた日本初の西洋式公園です。当時は外国人専用の公園で、彼らは「ブラフガーデン」と呼んでいました(ブラフは崖の意味で、急傾斜地の多い山手地区を指す)。山手公園は日本の近代テニス発祥の地でも
あります。
当時の様子がよく残っていることから公園としては数少ない国の文化財(名勝)に指定されています。

開港と日本初の西洋式公園の誕生 – 横浜市

そもそも西洋式公園とは、大きな庭園に花壇や噴水などの西洋を感じさせる造りとなっていることが特徴です。
西洋式公園は日本庭園と違い、館と呼ばれる建物を中心に幾何学なデザインとなっています。
現在も残っている西洋式公園としては「日比谷公園」などです。

テニス

5つ目は、オリンピックや世界大会が開催されるなど人気の高いスポーツ「テニス」です。
こちらも西洋式公園でも紹介した「山手公園」が、発祥の地とされています。
1876年にイギリス式のテニスが横浜に伝わり、全国へ広まっていきました。

この公園は1870年(明治3年)に横浜居留外国人の手によってつくられた、日本で最初の西洋式公園です。以来、80年間外国人専用の公園として使われ、戦後は横浜市民のスポーツと憩いの場として歩んできました。
日本における近代テニス発祥の地でもあり、園内にはテニス発祥記念館もあります。
また、ヒマラヤスギも日本で初めて植えられ全国に広まりました。
2004年3月に名勝の指定を、2009年2月に近代化産業遺産の認定を受けました。

山手公園(中区) – 横浜市

山手公園は、もともと外国人居留地のレクリエーション施設としてオープンしたのです。
園内には、テニスコートが2面あるほか「日本庭球発祥の地」の記念碑がありました。
また、テニスの発祥の地を記念した「横浜・山手 テニス発祥記念館」もあります。
ここでは、テニスウェアやラケットなど、テニスに関する歴史が展示されているのです。

興味のある方は、ぜひ一緒に訪れてみてはいかがでしょうか。
山手エリアは、領事館や洋館が現在も数多く残っており、とてもオシャレな街並みとなっています。
横浜観光のついでに、こちらもあわせて散策するのがおすすめです。

山手十番館

横浜山手で遊ぶなら地元視点 – 横浜で暮らそう

競馬場

6つ目は、騎手の乗った馬で着順を競う施設「競馬場」です。
そもそも、現在の日本で広まっている競馬は西洋式と呼ばれるものとなっています。
日本における競馬の歴史は、1866年の江戸時代までさかのぼります。

1860年(万延元)
9月1日、現在の元町付近で日本初の洋式競馬(馬蹄形の馬場)が行われる。

1862年(文久2)
横浜新田(今の中区山下町)で現在の競馬の原型となる近代競馬(環形馬場で正式に番組を決めて実施)が行われる。

1866年(慶応2)
12月、日本初の本格的洋式競馬場である根岸競馬場(現在地、中区根岸台及び簑沢)が完成。

1867年(慶応3)
1月11日、根岸で最初の競走が行われる。

馬の博物館とは – 馬の博物館
根岸競馬場のレース風景(1934年5月18日)
馬の博物館とは – 馬の博物館

それまでは、現在の元町や山下公園で競馬が実施されていましたが、仮設のものでした。
そのため、日本で初めて西洋式の常設競馬場が完成したのは、根岸競馬場ということになります。
現在は取り壊されいますが、横浜競馬場(旧:根岸競馬場)跡地として「根岸森林公園」に残っているのです。

根岸森林公園

1860年代、横浜で始まった洋式競馬は、1866年(慶応2)にこの地に完成した根岸競馬場を舞台に、翌年から1942年(昭和17)に幕を下ろすまで76年間行われました。もともと居留外国人の娯楽として始まった根岸競馬場は、やがて日本人も加わった社交場として賑わい、その後各地に設立された競馬場のモデルとなりました。

馬の博物館とは – 馬の博物館

根岸に競馬場がオープンした理由としては、外国人居留地がたくさんあったためです。
オープン時は、娯楽施設として日本人も含め、たくさん方々で賑わっていました。

帝室御賞典競走当日の根岸競馬場の様子(1908年)
馬の博物館とは – 馬の博物館

現在も名残りとして、丘の上にある公園周辺には、米軍施設や高級住宅街があります。
大きく立派な一戸建てのほか、駐車場には外車が停まっているお宅も珍しくありません。
この根岸競馬場も、日本の近代の歴史と共に変化をしてきました。
第二次世界大戦中は日本の海軍に接収され、終戦後はアメリカ軍に接収されていたのです。

1969年に競馬場の旧スタンドを残して日本に返還され、公園となりました。
その後、1982年には旧スタンドも返還されて公園内に「旧観覧席」が公開されています。
また、同じくパネルで設計図などの説明もありました。

当時と同じ場所で、展示物から歴史を学べる「馬の博物館」があります。

馬の博物館は、1977年(昭和52)日本中央競馬会により、わが国初の本格的な洋式競馬施設・根岸(横浜)競馬場跡地に開設された根岸競馬記念公苑内にあり、現在は公益財団法人馬事文化財団が運営しています。

馬の博物館とは – 馬の博物館

館内には、馬具やアート作品が展示されているなど、常設の展示室があるのです。
また、ミュージアムショップがあるため、馬のぬいぐるみやTシャツなどを購入できます。

ミュージアムショップ – 馬の博物館
ミュージアムショップ – 馬の博物館
ミュージアムショップ – 馬の博物館

他にも、博物館横には「ポニーセンター」という、乗馬やエサやりのふれあい体験ができる場所もあるのです。
ここでは、かつて競馬で活躍して現在は引退している馬を間近で見ることもできます。
動物園以外にも横浜の中心地で、馬と触れ合える場所があるのです。
根岸森林公園と博物館は、家族で1日楽しめる施設となっているのが嬉しいですね。

思いっきり身体を動かしたい方にはおすすめです。
そして、春になると根岸森林公園が桜で満開になるため、こちらも見逃せません。

根岸森林公園 芝生広場
根岸森林公園 芝生広場

根岸駅周辺は集合住宅が多く、歴史ある場所 – 横浜で暮らそう

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ホテル

そして7つ目は、遠方の宿泊で利用することが多い「ホテル」です。
日本における、西洋式ホテルの歴史は横浜から始まっています。
それまでは、入口を入ると庭園があり、部屋には畳・布団・お風呂が付いた和式の旅館が主流だったのです。

1859年、開港とともに日本初の西洋式ホテルとして「横浜ホテル」が開業しました。

1861年(文久元年)、幕府はここを外国人居留地として造成。横浜居留地70番地としたのでした。その後、オランダ人経営の外国人向けホテルが創業され、記念すべき日本でのホテル発祥の地となりました。

山下町七十番地の由来 – 横浜かをり

ただ、現在は現存していないため、「旧横浜居留地70番地」に日本のホテル発祥の地であることを示す記念碑が建てられています。
大さん橋通りにある「横浜情報文化センター」の向かい側「かをり」というレストラン近くにあるため、足を運んでみてはいかがでしょうか。

かをりのルームシェア – 横浜かをり
ニュースパーク 日本新聞博物館

海水浴

最後の8つ目は、夏の人気レジャー「海水浴」です。
海水浴は、夏の定番レジャーですが、実は海外から持ち込まれた文化なのです。
調べてみると、このような記載がありました。

江戸時代末までの日本にはない習慣であった。

安政6年(1859)の横浜開港以降、外国人居留地で暮らしていた欧米人が日本に持ち込んだ西洋文化のひとつが海水浴なのである。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修

当初、海水浴はレジャーというよりも手軽に行える健康療法として親しまれていた。海で泳ぐのではなく海水に浸かることで、病気に負けない健康体へと改善するのが目的である。欧米では、19世紀に有効な治療法が存在しなかった死の病・結核の治療法としても、海水浴が採り入れられていた。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修

もともと、欧米で海水浴が広まった当時は、身近な健康療法の1つだったようです。
そのため、結核の治療法として海水浴が広まっていました。
これは、当時の日本で言うと、冬の温泉に浸かって傷口を治す「湯治」のようなものだったのでしょう。
そして、海水浴場が日本に入ってきたのは、1865年の江戸時代にさかのぼります。

日本初の海水浴が山下に設けられたのは慶応元年(1865)のこと。今は山下公園となっている外国人居留地のフランス波止場の沖合に、海水浴ボートを設置した。居留地の欧米人たちは、フランス波止場から送迎用ボートで海上のボートまで向かい、そこで海に浸かるなどしていたと思われる。開業期間は5月1日から10月1日まで、使用料は1シーズン12ドル、1ヵ月5ドルで、会員制であった。同年8月5日には会員による横浜で最初の水泳大会が開催された。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修
横浜港 みなとみらい
山下公園から見える横浜港

現在の山下公園一帯は、日本初の海水浴場となっていました。
この頃になると、健康療法から人々が楽しむためのレジャーに変化していったのです。
そもそも、島国である日本にとっての海は、人々が生活をする上で重要な場所でした。
それまでは、漁師や海女などが海を生業として食べ物を獲り、生計を立てていたのです。
また、日本人にとっての海は、恩恵を受けている神聖な場所でもあったのです。
現在でも、神仏に祈りを捧げるため、一部の地域では「みそぎ」という、海でけがれを払う行為や、お祭りの際に海に入ったりします。
そのため、夏になると人々が海で「海水浴を楽しむ」という光景は珍しいものでした。

現在、横浜市で楽しめる海水浴場は、金沢区にある「海の公園」のみとなっています。
ところが、かつて横浜市内には海水浴場ができる場所がいくつかあったそうです。
ここからは、以前あった横浜市内の海水浴場についてお伝えします。

中区の山下から本牧、磯子区の根岸・磯子・杉田、金沢区の富岡までは、

数多くの海水浴場がひしめくエリアであった。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修

現在でいうと、下記の場所が海水浴場として、賑わっていたスポットだったそうです。

  • 山下公園/本牧 周辺(中区)
  • 根岸/磯子/杉田 周辺(磯子区)
  • 富岡 周辺(金沢区)
本牧
JR線「根岸駅」
磯子駅
JR線「磯子駅」

当時、外国人居留地がなかった富岡周辺の海水浴場はそこまで賑わっていませんでした。
しかし、ヘボン式ローマ字の創始者・ヘボン氏によって、海水浴場の認知度が広まっていったのです。
医師としても活躍していたヘボン氏は、日本の医療に貢献していました。
そして「富岡の海は東京湾で1番の良海」と紹介し、自らも海水浴を行っていました。
その際に、金沢区にある海の絶景を気に入り、たまたま訪れていたのが後の初代内閣総理大臣・伊藤博文だったのです。
海水浴が一般的に広まっていない時代だったため、海に浸かっているヘボン氏を疑問に感じました。
そこで、何をしているのか聞くと、塩分を多く含む海水に浸る健康療法「潮湯治(しおとうじ)」を行っていると答えたそうです。
そして、ヘボン氏に効能を聞くと「夏に海に入れば冬に風邪を引かないから」と言いました。
医師であったヘボン氏の意見に興味を持った伊藤博文は、身をもって体験するため、すぐに実行しました。
その後、身体に効果が現れた伊藤博文自身が「富岡の潮湯治」と命名したことで、お墨付きを得た「富岡海水浴場」は、多くの人々に広まったのです。

横浜市金沢区ってどんなところ? – 横浜で暮らそう

明治3年(1870)ごろには本牧十二天、明治8年ごろには富岡に海水浴場ができ、欧米人が海水浴に訪れた。
明治15年ごろからは、
山下一帯で海水浴を楽しむ人が増加する。しかし、大正4年(1915)に山下の海沿いの埋め立てがスタート。そこで、本牧や富岡だけではなく、その間に位置する根岸、磯子、杉田にも次々に海水浴場が開かれ、多くの日本人でにぎわいを見せた。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修
本牧埠頭
本牧埠頭

また、大正初期の1911年には本牧に路面電車が開通したことで、利便性も向上しました。
本牧の海水浴場は、1つではなく複数あり、名称も付くほど広かったようです。

  • 本牧十二天
  • 小港水泳場
  • 松原海水浴場
  • 花屋敷海水浴場
  • 市設海水浴場
  • 一ノ谷
  • 二ノ谷
  • 三ノ谷
  • 間門海水浴場 など…

本牧といえば!横浜 本牧生まれが語る本牧 – 横浜で暮らそう

一方、海水浴として賑わいを見せ始めた頃には、山下周辺で海沿いの埋め立てが始まってしまいました。

関東大震災の復興事業として横浜市助役だった楢岡徹らが、市内の瓦礫などを使って海を埋め立て造成し、1930年(昭和5年)3月15日開園。面積は7.4ha。開園当時は現在の沈床花壇部分が泊地になっており、その名残が氷川丸の横にある小さな橋に見られる。

山下公園 – Wikipedia
山下公園

そのため、本牧や富岡の海水浴場が大勢の人で混雑するため、その中間地点にあった「根岸/磯子/杉田」にも海水浴場がオープンしていったのです。
横浜から全国的に広がり「海水浴=レジャー」というイメージが定着していきました。

この海水浴は、明治時代から昭和30年代頃まで行われ、とても賑わっていたのです。
そのため、本牧の海水浴場周辺にはたくさんの海水浴に関連する施設がありました。
なかでも特に驚いたのは、関連施設に遊園地があったことです。
子どもから大人までが楽しめる海水浴場では、このような子ども向けの娯楽施設も充実していたんですね。
しかし「富岡海水浴場」のあった金沢区は、産業の振興を図るため、工業地帯として新たに活用されることになったのです。

幸浦駅 横浜シーサイドライン
横浜文明堂 横浜工場売店
鎌倉紅谷 幸浦店

横浜 金沢区はアウトレットと工場直売の街 – 横浜で暮らそう

これを機に「本牧/杉田/根岸/富岡」と次々、埋め立てが決定し、工事が着手されます。

本牧から杉田までの根岸湾の埋め立てが行われたのは、昭和34年(1959)から昭和46年。富岡から平潟にかけての金沢区沿岸部の埋め立てが実施されたのは、昭和46年(起工式)から昭和63年にかけてのことである。

横浜謎解き散歩 – 小市和雄 監修
平潟湾 野島
平潟湾 野島

こうして戦後の1950年代を境に、横浜市内の海水浴場は徐々に姿を消していったのです。
そして現在、横浜市内で海水浴が楽しめるのは「海の公園」のみとなっています。

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横浜観光で「横浜発祥の地」を巡るなら中区がおすすめ!

最後まで読んでいただきありがとうございます。
ここまで「横浜発祥の文化」と、その歴史についてお伝えしました。
少しでも参考になれば幸いです。
1日で「横浜発祥の文化」を巡るなら、横浜市中区からスタートするのがおすすめです。

参考:よこはま中区の歴史を碑もとく絵地図 – 横浜市中区

横浜 みなとみらい

今回お伝えした横浜発祥の文化は、ほとんどが当たり前ように使っているものでした。
改めてものや文化の大切さに気付き、長く使い続けていくことが昔の人々に対する敬いにもなると思います。
そのため、この歴史はぜひとも後世に受け継いでいきたいですね。
いつもとはひと味違った、横浜観光を満喫してみてはいかがでしょうか。

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